昭和42年 12月29日夜



 だんだんとお道の信心を進めて参りますと、自分だけが助かるのではなくて、誰も彼も助かっていくおかげを願わしてもらうようになる。またそう願わなければならんと教えられる。皆が立ち行くようにまぁいうならば、今まで商売敵と思っておった相手の商売人も立ち行かなければならん。自分の方はなおさら立ち行かなければならん。だから共々に立ち行くように願わなければならない。あちらも立ち行く、こちらも立ち行く。皆が立ち行きますおかげを頂く。そのみんなが立ち行くおかげというのは、まぁみんながおかげを受けることですけれども、そんなみんなが立ち行くようなおかげを頂くということ、またそれを願わせて頂く、またどうぞ皆が立ち行きますように、皆が立ち行きますようにだけではいけんのでございますから、皆が立ち行くためには、ならどういうそういう願いをどうぞ皆が立ち行きますように、ためにはならどういうこちらが在り方にならなければならないか。口で願うただけじゃだめ、皆が立ち行きますように。
 今日ある方がお参りをしてきた。もうだんだん年の瀬も迫ってきた。とくにお互いが良い正月を迎えたいために、経済の面でも十分ゆとりのあるおかげを頂きたいのは、誰しもそうである。ところが良い正月を迎えられると思ったのに、嫁さんが着物を作ったり、いらんものを買うてきて、その贅沢をするとこう言いなさる。それをあのどういう事からかというと、やはり主人の賞与があったから。わざわざどっかから借金してきとるわけじゃないけれども、そして私は、まぁ着物も作らなければ、特別なものも買わないとこういうわけでございます。まぁお小遣いはもらっているらしですけれども、それでは不足なわけなんですね。とりあえず嫁さんがそうやって贅沢するから、もうそれが情けないわけです。まぁうちあたりはあげな贅沢をさせん、まぁしてはならんということ。それでその嫁さんの顔もこの頃見ようごともなか、というようなお届けでした。
 本当にまぁあなた方としては、そうじゃろうなぁとこう私もそう思いますけれどもです、もう本当にあのけれどもやはり世の中も立ち行かないけませんからね、姑親も立ち行かなきゃならんけれども、家中が立ち行かなければならんのだけれども、そういうことで、私は神様にお願いさして頂いてから、そのまぁお話しさして頂いたことですけれども、嫁さんがたとえば、そういう贅沢と思われるようなものをその、まぁ身に付けたり買うたりする。そこでなら、その自分ところのほんなら息子であると。息子も私も孫もです、みんなそういう贅沢ができるように、贅沢と言うがそういうがそういう良いものが身につけられるようにです。おかげを受けていったら良いのである。してみると、そこに嫁がそこの家でのおかげの一番受けはじめだから。はぁー嫁ごだけでもそういうものが身に付けられるというったり、贅沢ができるということはありがたいことじゃないかということを、私は話したんです。
 皆がだからそういうおかげを頂けれるように、おばあちゃんあなたも、お父さんあなたも、子供達にも洋服一枚づつの立派に作ってあげれるようなおかげを頂いたらよか。それただ嫁子だけが贅沢しておると思うから腹が立つ。もう顔も見ろうごとない。ですから本当にこの辺のところの思い変えというか、そういう思い変えをしていくところがです、あれも立ち行きこちらも立ち行くおかげの頂けれる、私、元になるのだとこう思いますね。まず自分の方が助からねば、まず嫁子の方が助かっとる。嫁ごがよか正月ができる。来年あたりは今度は息子もよか正月ができるだろう。その次にまた自分もよか正月ができるだろうというようにです、おかげを頂いていくたびに、私はまず嫁子がおかげの受けはじめとしてです、おかげを頂いて、それこそもう本当に嫁子がですたい、もう本当に着たきり雀のようにしてです、みすぼらしい格好をしておるよりも、それの方がありがたいというような思い変えを、になっていかなならん。だからむしろお礼を申し上げることなんだ
 それこそ嫁子がどっかから借金追うてきてですよね、自分だけ作ったのはいや知らず。けれども、借金負ってきたのではない、やはりそれだけの収入があったから、それだけのことをしただけのこと。普通からいうとです、あんたらばっかりが買うちから。主人や子供は年寄りだんどはと言うたいとこですけれども、それでは(?????)。みんなが立ち行くようなおかげになっていかん、それでは。いっぺんに立ち行こうと思うから腹が立つ。ひとつひとつ立ち行ったらよいのである、私そのことをですね、そのどうしてそう言う風に言ったかというと。
 神様はその、最近大きなストーブが見えないのです。あのストーブはどこさやったかって言ったら、豊美が2階さに持っていっとる。もうこの人はそのちょっとわがままですから、もう布団でも何でも一番上等なのを敷かないけんです。自分だけ。ストーブでもなら、自分の部屋だけに持っていって、その温まっとるちゃが。だから、考えてもほんにあん奴、わがままなふしだらな奴だと思うです、やっぱ私でも。もうストーブの一台でも降ろしてこいと言いたいような気もするんです。そん時に私はそのことをそう思ったです。はぁーおかげを頂いてから、もうこの部屋にでも、その部屋にでもです、ストーブの置けれるようなおかげを頂いて、そのうちになら豊美たちの、娘たちの部屋が一番におかげを受け始めに受けただけの事。だから、そのことにお礼を言うたらええ。たとえば、あんたがそげなストーブを使うてから、他ん者がどうのと言うたら、そのみんないかにも立ち行くようであって立ち行かん、それでは。まず豊美ちゃんの部屋の、豊美の娘の部屋が立ち行くおかげを頂いて、次にはまた今度は息子たちの部屋も立ち行くように願うたらいい。
 私はこのどうでもみんなが立ち行きますように、みんなが立ち行くおかげを頂かなければ、人間の幸せはないのである。ですからそれをですね、その思い変えをしていかないけん。だからその、私達が誰でもその、お道の信心さしてもらうには、そういうことが願えれるようになる。そのことをまぁ願わしてもらえれるようになる。商売敵の誰さんのことまで願えれるようになる。ところが、願っただけじゃいかん。あれも立ち行き、これも立ち行くだけじゃ、ということ願っただけじゃいかん。あれも立ち行き、これも立ち行きようにお願いさして頂くためにはです、たとえば商売敵のほうがどんどん商売が繁盛しようとするならば、もう商売敵のその人が立ち行きよるのであるから、お礼を申し上げられる気持ちにならにゃといかん。それが、あれも立ち行き、これも立ち行くということの元になる。そういう願いを元におかげを頂いていくところに、私自身も遂には助かっていけれる、おかげが受けられる。人が助かっていくところを喜んでいくのであるから。
 今日、熊本から村川さん達が、年末のお礼に出てきました。いろいろそのお夢をいただかせて頂いておる。教会、親戚に教会がある。そこのことをお夢の中でお知らせを頂いた。神様からお夢の中にその教会にバナナを買うて送れとお知らせを頂いた。先生どういうことでしょうかと。そこで私は申しました、その教会にね、あんたも自分で身の皮を剥いでからでも、早速電報為替でもいいけん、お金を送りなさいと、年の暮れに間に合うように帰ったら早速送んなさい。それはどういう意味ですかっち。バナナのあんたがお知らせを頂いたっち言うから、私はそげん言いようのたい。バナナのお知らせは、ありゃあ自分の身の皮を剥いでからでもということなんだ。
 バナナを送るということは、おそらく教会で、細々した教会ですから、借金に困っとるようなことがあるかもしれん。元旦祭が仕えられんといったように、まぁ神様に一生懸命お願いなさりよるかもしれん。だから、あんたが身の皮剥いでからでも自分の着物一枚剥いでからでも、早速帰ったならば電報為替送んなさい。それが神が立ち行くことじゃと。それが教会が立ち行くということはね、それが神が立ち行くことじゃ。神も立ち行き、氏子も立ち行き、金光大神もの神も喜び、氏子も喜び、金光大神もの喜びじゃとおっしゃるのがですね、ただ氏子がおかげさえ頂けば、神様も喜んでくださる、金光大神も喜んでくださるというのではないのです。
 神も立ち行き氏子も立ち行くということは、まず神様が立ち行かれるために、氏子が一生懸命勤めないかん。教会が立つために一生懸命勤めないかん。教会が立ち行くために勤めなければいけん。そこに神様が氏子が立ち行くように一生懸命勤めてくださる。それを仲取りもってくれる金光大神が喜んでくださるのである。神も喜び氏子も喜び、もうとにかく私どもがおかげさえ頂けばです、私もおかげさえ頂けば、神様が喜んでくださる。なるほどそれは、親が子供が助かって行きよる姿を見て、親が喜ばんはずはないけれども、子供が助かって行きよるならば、やはり親も助かって行きよらにゃいかん。ですから子供が、まず親が立ち行くように願わしてもらう。立ち行くようにしていかないけん。身の皮剥いででも教会に電報為替でも、早く送りなさいとこう言うのがそれなんだ。そこへ神が立ち行くわけ。そういうことになってくる時に、こんどは神様が氏子が立ち行くことのための働きをしてくださると。それを仲取り持ってくださる金光大神も喜んでくださる。
 私、みんなが立ち行くということはそういうことだと思うんですよ。まず自分じゃなくて、人が助からないけん。どうぞ、自分方の商売繁盛のおかげを頂くために、商売敵のほうの商売繁盛も願っておるといったようなことではいかん。みんなが立ち行くように、私の店も立ち行かねばならん。商売敵と思っとったあちらの店も立ち行かねばならない。自分の場も立ち行きよらんけれども、向こうのほうがどんどん立ち行きようとするなら、一つはあそこに立ち行きよるおかげを頂いておるのであるから、お礼を申し上げらないかん。だから、そこんところにこちらが立ち行くおかげが頂けれると。まずこっちが助かって、こっちがどんどん繁盛して、向こうはその余波で繁盛していくといったような願いではおかげにならん。ところが向こうが繁盛しよると腹立つ、これじゃ誰もみんなが立ち行くような願いを持ちながら願っておらん。本当に願っていない証拠だ。そうでしょうが。家ん中でも一人でも本当に贅沢がでける。なら、あればかりが贅沢をしてというような見方じゃなくてですたい。それが一人でも贅沢ができるようなおかげを頂いておるということが、ありがたいじゃないかと。
 どうぞ、そのいわば女房も家内も子供も、そして、私もまたそういうおかげの頂けれるような、おかげを願わないかん。まずだから、嫁子がおかげの受け始めだから、そういうことをあれだけでも、シャンシャンする。おかげを頂かしてもらえることがありがたい。それも別に借金してからというわけでもない。あれができるようになったということが、ありがたいというような心の状態を頂かないかんと、こっちが。なかなか難しいことだから、しっかり日頃信心のけいこをさして頂いて、いわゆる和賀心ば・・・?なければでけん。商売敵の方だけが繁盛しよるのを見ると腹が立つ、お願いの中には、どうぞみんなが立ち行きますようにとお願いしとると。本当に立ち行きますようにと言うて、相手の方が繁盛しよるならお礼を申し上げる。という気持ちにならしてもらうときにです、こちらは神様がみて下さる繁盛のおかげになってくるのである。金光様の信心をさして頂くようになるとです。だんだんその、心の内容ってかね、お願いをするならお願いでも自分のことばっかり願っちゃでけん、人のことも願わにゃならん、本当にそうである。
 ならば、人のことを願わして頂いておる、その人が助かっていきよるならです、お礼ば申し上げないかんのに、人が助かっていきよる、自分が助かっとらんように思うと、それが情けなかったり、腹が立ったりする。もう本当にこげなつまらん話しはなか。願いよる、願っておる事をです。成就して行きよることをお礼を申し上げきらん。そこんところのお礼が申し上げられるようになった時が、私は一人前と思う。そこにこちらのことは神様がその次にくださる。おかげは本当なもの。だから皆が立ち行くおかげになってくる。自分が先に立ち行かなならん、(途中切れ)